気付き

私、藤本敦子。

私は自身の生きづらさから心理学に関心がある。

対人関係において、相手に対してその相手に映る自分自身を観ているのだ、と頭では分かっていたけれど、今日はその先のこと。

私自身が楽になったから忘却録も兼ねて。

目の前の相手に映し出される自分自身の嫌な部分や許せない部分を観て落ち込んだり腹を立てたり、妙にこだわってみたり。。。

例えば、私の持っている『弱さ』。

相手に『弱い』と言われた時、相手は私の中に相手自身の『弱さ』を映して騒いでいる。

言われた側の私は、私にも弱さはあるよな、と思うから、相手の言っていることが当たっているから『私は弱いんだ』と錯覚してしまう。

そして私の場合は『そんな私だからだめなんだ』と思っていた。

でもそうじゃなかった。

確かに私の中にも『弱さ』はある。

でも相手の『弱さ』は私に映る相手の『弱さ』であり、私の弱さとは違うのだということ。

相手の『弱さ』と私の『弱さ』は違うということ。

つまりは『違う』ということが前提にあるということ。

『違う』のだから、相手はこういう時どう思うのだろうか?、どうされると嬉しくて、どうされると悲しいのだろうか?と、今まで生きて来て初めて『人』に興味が湧いた。

私は小さいころから大半はイジメられたり、人からとやかく言われていたから、人に対して興味も湧かなかった。

相手が人のせいにしたい人ならば、自分に起こっていることを目の前の人の事に置き換えていて、現実から目を伏せて人のせいにしているだけだ。

このことに気づいたら、いじめっ子や、とやかく言ってくる人に対して、言われたことで私自身は落ち込む必要も無かったんだなと思う。

自分の中に持っているものを相手に映して、引き出されているだけ。

これを認めると楽になるんだろうなと思うけれど、無意識に隠そうとしていたり、同じものを持っていると思っていなかったり、気付いていないんだろうなと。

そう思うと、彼らも私と同じ傷を持っていて、きっと生まれる前に今生私にとやかく言うようにお互いに決めて来ているんだろうなとも思うし、感謝とまでは流石にいけないけれど、腑に落ちる部分がある。

私の古傷が少し癒えたような気がした。

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